どうして朝井リョウのエッセイに笑ってしまうのか考えてみた

 私はエッセイを読むのが好きだ。小説家はもちろん、芸人、役者、スポーツ選手、Youtuberまでもが本を出している。読んだ後、遠いはずの成功者たちがいくらか近い存在に感じて、応援してしまう。そんなエッセイ消費マシーンの私が唯一吹き出してしまった本がある。それが、朝井リョウの『風と共にゆとりぬ』だ。

 こげ茶色の表紙と筆記体チックにかかれた金色の文字。ページ数も多くて迫力があり、さながら魔術書のようだ。しかし、内容は魔術書とはかけ離れている。人間と同じで、本も見た目だけで判断してはいけないのだ。

 私は定期的に『風と共にゆとりぬ』を読んでいる。理由はいかれたエッセイを定期的に自分に注射するためだ。

 その日の私もいつもの通り「肛門記」を開き大爆笑していると、ふと疑問が浮かんだ。「面白いっていつも思ってるけど、どうして面白いのか考えたこと無くない?」

 思い立ったら即行動。Let's try anyway! 大好きな人への贈り物、という素敵な文章を例に考えてみた。

 この本の面白さは大きく分けて二つある。一つは筆者の自虐。もう一つはボキャブラリーの豊かさである。これら二つを凝縮した次の文を見てみる。

「そんなところに妖怪馬顔猫背が鎮座するなんて……という申し訳なさにいつも心がヤられそうになるのだが」(P60)

 「鎮座」という言葉の正確な意味を知っているだろうか。何となく大きなものが存在すること、といううっすらとしたイメージだ。そこで「鎮座」を電子辞書で調べてみた。

「人や物がしっかりと場所を占めていることを、多少揶揄の気持ちを込めて言う語」と書かれていた。そう、鎮座には人をバカにするニュアンスが含まれているのだ。なんて正確かつ自虐的な言葉の使い方だろう。明日から「鎮座」使っちゃおう!鎮座!鎮座!鎮座!ってレベルで勉強になる。

 次にボキャブラリーの豊かさについてだ。「ワサビ」を「アブラナ科の植物をぐちゃぐちゃに擦ったもの」とマイナスに捉えたり、「オクラ」を「アオイ科トロロアオイ属の植物」とシュールに表現したりして、とにかく言い換えに引き出しが多い。

 このような面白形容詞で埋め尽くされているこの本だが、決して読みづらいことは無い。話を進めるための説明の文は簡素でテンポが良い。だからたくさんの自虐や大げさな表現が来ても胃もたれしない。流石直木賞作家!(何様?)